ほんのり、と

想いのままに

ほんのり
ふんわり

そのままに。

変わらないということ



前記事はノンフィクションです



なので、長くは置きません。



人生というのは様々な形をもっています。


悲しみの形も
苦しみの形も


みな違います。



同じ体験をしても
悲しみや苦しみは違う。



そして、
苦しみや悲しみに
上も下もありません。


例えば
コップが壊れた、
というショックは
どうしても諦められない!と酷くショックを受ける人もいれば
まぁいっか、と思える人もいます。


私の十代に起こったことは
悪夢でもあり、屈辱的なことでもあり、
人生をやめてしまいたいと思うに至ることでもありましたが
耐えられない事ではなかった。


だから今こうして生きています。


なぜ、今があるのか。



それは、
事故や病気で亡くなった人はもっと悔しいのではないか
コレ以上な事が起きてる人がいるのではないか
この時間がずっと続くわけではないんじゃないか


そう思って現実逃避や気持ちの切り替えをしていたから
だと、思います。



25歳で、人生ってなんだろうとか、
何のために生きなければいけないのか
なんで私が生き残ったんだろうとか
いろいろ考えました。
ご飯も食べず、何日も寝ず、ずっと考え続けていました。


でも、そんなことには何の答えもないんです。


どれだけの財を築こうが
どれだけの人と出逢おうが
終わりは必ずやってくる。


それが、いつなのか、は
自分で終わらせない限りわかるものではない。


そういうことなんです。


私は生きることで、誰かを救えるかもしれない、と。
本当におこがましいことで、
偽善者だと言われる事も思われることもあったけど、
行動にうつしたことで非難を受けることもあったけど、
結果論として
『絶たずに済んだ命があった』ということです。


深い絶望を感じているひとは、何も言わずにそっと
消えてしまいます。
SOSなんて出してはくれない。
それでも何かのきっかけやヒントは転がっていたりする。



生き続けるってラクじゃない。
残された者としてどう生きていくのかは、全部自分次第。
自己責任。



悲しみや苦しみの中にある
そうじゃない一瞬一瞬を見つけられるかどうかは
やはり自分にしかできない。


悲しむ事はいくらでも出来る。
居なくなってしまった人への記憶というのは
自分でしか管理が出来ない。


その人はいなくなった後、どんな想いも言動も
増やす事も減らす事も出来ないから。


楽しかった思い出、悔やむ思い出、嫌な思い出、
それらは全て自分の中で作り上げるものでしかない。


受け入れるということは本当に難しいし、
誰かに邪魔されることもある。


でも、それでも自分で乗り越えるしか
方法はないです。



悲しみに浸る事も、後悔し続ける事も、
全て自分が起こしていることにしか過ぎない。


本当に相手を苦しめたいが為に
命を投げ出す人なんてそうそういない。


残された者の人生の課題として
どうしていくかは自分で決めないといけない。




後追いっていうのは、
自分自身の中にある弱さに
耐えきれなくなってすることだと、医師は言った。


何も見出せない人生に、なんの意味も得ないから行うのだと。


ただ、人はそうなるとき、本当に孤独なのだと。
誰の事も考えられなくなるのだと。
結局は自分のことしか考えられなくなったとき、
先にいなくなった人を恨んだり責める事で
自分の決断を正当化するのだと、そう言った。



あまり医師らしくない人だったけど・・・・(笑)




私は生きる道を選んだ。
別に誰に言われたわけでもないけど、自分の足で歩きだした。


そう、勝手に。
始まりは誰の為でもなく、自分の為。


理由なんて何もいらない。
正当化しようとすればするほど首をしめることになるから。



目の前にあることを、自分で選んでするんだから。



寝る。
ご飯を食べる。
歩く。
お風呂に入る。
歯を磨く。
顔を洗う。
仕事に行く。
車を運転する。



生きる事を忘れるっていうのは
これらがみんななくなる。



私は今のところ、生きる事を忘れていた頃には
戻ってない。



歩き出せてるんだろうなって、
そう思える。






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